テーマ「美術」の記事
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2008/09/30 19:21
美術館という空間を、こよなく愛し始めたころ
もっといろいろ知りたい。という欲求の先で
必ず、ぶち当たったのが
『松方コレクション』だった。
それらは、どれも
アゴが外れそうになるぐらい
一度はお目にかかりたい。と願ってやまない作品ばかりで
だから、ちょっとだけ『松方コレクション』について知識がついている。
第一次世界大戦のころ
“パリの画廊が空になる”といわれるほどに
一人の日本人によって買い集められた『松方コレクション』には
戦争と天災によって、日本に保管されていない数々の作品がある。
吉田茂が、サンフランシスコ講和会議の際に
フランスに要求した松方コレクションの返還は
・「寄贈」という名目で、一部返還され
・国立西洋美術館という専用の美術館に収められ
・フランスが返還を拒んだ数々の作品は
オルセーやルーブルの所蔵作品となっている。
という、私の精一杯の知識であって
ウィキペディアでみたら、もっといろんな事がわかったけれど
まぁ、とにかく
その買いしめっぷりにも、アゴがはずれそうになる。
『松方コレクション』を全部、その一作品一作品を、探訪する旅に出たい。
これは私の
‘6億円BIGが当たったらやることリスト’に載っていて
今のところまだ、実行できそうな気配はヒトカケラもない。
そんなこんな、あーだこーだで
やっと麻生さんが首相になった。
望むことは唯一つ。
さぁ、フランスに言ってやってくれ。
ゴッホの『寝室』を返せ。松方コレクションを返してくれ。
おじいちゃんの借りを返してくれ。
という
オカド違いと言われればそれまでの
たった一つの願いである。
あり得もしない願いだとは
もちろん全身全霊で思っている。
けれどその願いは
今の日本を、今の自民党の優勢支配政権で
かつ、麻生太郎首相で
“豊かで明るく強い国にしてください”と願うことと平行するぐらい
あり得ない願いではないか、と思ってしまう。
それぐらい、「今」が沈んでいる。
そんな風に政治経済のニュースを眺めている。
そして今日も
麻生さんの顔を眺めながら
「ここはあえて、意を決して、6億円BIG当選の夢にかけるしかない。」
クチを斜めに曲げた私が
テレビの前でそう意気込むのだ。
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2008/08/25 19:17
いつのクリスマスだったか
父がくれた一冊の絵本とはいえない絵本を
引越しするたび、洋服と同じように荷造りし
いつでも手にとれるように、本棚においてある。
小川未明作 いわさきちひろ画 『赤い蝋燭と人魚』という本で
かすかな記憶では
エンデの『はてしない物語』を
果てしなく苦労しながら読んでいた頃だったので
小学校高学年ぐらいの年頃にもらったのだと思う。
しかも、クリスマスというめでたい日に
そのお話は、ものすごく暗く、悲しく、恐ろしいストーリーで
絵本にしてはモノクロ一色で、更に暗さを増し
なんだかとってもうれしくない絵本だと、子供心に思っていた。
しかも、『はてしない物語』の分厚さと、文字の小ささに格闘している娘に
わざわざ絵本をくれるなど
バカにされたような、くすぶる思いもあった。
けれど何故か、だんだんだんだんその絵本が大切なものになった。
それは、年とともに
うなぎの蒲焼には山椒が必要不可欠なものになってきたことと似ている。
ような気がする。
今も同じお話の絵本を、図書館や本屋さんで見かけるけれど
そのどれもが、色鮮やかで、派手派手しく
私が知っている『赤い蝋燭と人魚』とは、全く違うお話のように思える。
小川未明の、人間のエゴをえぐるような物語に
いわさきちひろの絶筆となった、はかなさが溢れる挿絵があって
私の中の『赤い蝋燭と人魚』は完成されている。
そこには、一分の隙間もゆがみもないのだと
いつからか思うようになった。
父は本当のいわさきちひろを、私に知って欲しかったのだ。
それまで、子供らしく目にしていた
色彩豊かないわさきちひろではなく
ある程度の理解力と、自我が確立していないと
きっとあの絵本を読み解くことはできないのだ。
そんな風に思えたのは、ごく最近になってからだ。
先日、宇都宮美術館でいわさきちひろの企画展を観た。
館内は、たくさんの親子連れと、たくさんの高齢者で騒がしかった。
やっぱり、いわさきちひろの描いた世界は
老若男女を問わず、愛される世界なのだと
多くの人が、かならずどこかで目にしている世界なのだと
その騒がしさに思った。
実は私は、いわさきちひろの絵が、どちらかというと嫌いだ。
美術館も、母のつきあいで仕方なしに行った。
けれど、美術館を出た後
心うたれた感に、全身がぽくぽくとした。
本音をいえば、今は
その前に観た『崖の上のポニョ』にココロ奪われすぎて
宮崎駿といわさきちひろ
それぞれのこどもを描く才能に、その色彩に
五感がばちゃばちゃとおぼれてしまっているような感じがする。
けれどそれは、大きい浮き輪に包まって大海原を漂うような
とても心地のよいおぼれ具合で
そうして、夏が終わる。
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2008/05/19 19:06
この前、ショッピングモールの催事場で
たまたま古書市のような催事をやっていて
たまたま時間を持て余していて覗いてみたら
運がいいのか悪いのか、出会ってしまった木版画。
広重の雨の版画。
それなりに妥当なお手ごろ価格で、一目ぼれ。即買い。
なぜ雨の絵かというと
この絵を目にした瞬間に、ふと雨の音が聞こえたからで
数週間前に‘冬の音’を聞いたことにも、影響されている。
初夏の匂いが立ち込める季節に
笠間の日動美術館に、佐伯祐三の展覧会を観に行った。
佐伯の絵は、冬好きにはすんなりと染み入る絵で
パリの街角を描いた作品が並ぶ展示室を
一人、ゆっくりゆっくり眺めていたら
カシャッ シャカッ シャッリッ という音が
耳たぶの後ろ辺りに響いてくるような気がした。
それは、初冬の朝の音で
前日に一度溶けた雪が、再び凍ってしまった寒い朝なんかに
足元で響くあの音で
“あぁ、やっぱり佐伯は天才だ。”
と素直に思った。
二度目は、佐伯を心から愛している母と行った。
“やっぱり冬の音が聞こえてくる。”
と思いつつ展示室を出ようとしたら、母が
深い秋に描いたと思われる
リュクサンブール公園の並木道を描いた作品を指さして
「ねぇ、あの絵、『第三の男』の音楽が聞こえない?」と言ってきた。
確かに、見えた。
絵の中の、並木道の影にオーソン・ウェルズの姿が。
けれど、“あの映画はイギリス映画で舞台はウィーンだった。”
ということを思い出したのは、だいぶ時間がたってからだ。
佐伯は、冬のパリの街角を描くために結核を悪化させ
仕舞いには精神が病んで、精神病院で30歳の若さで死んだ。
短い画家生活に描き出された風景には
佐伯がその街角に座り、絵筆を動かしたであろう
その瞬間の空気や音や、匂いをも写し取ったような
「迫力」ではなくて、何というか
「空気感」のようなものが漂っていて
それが、『第三の男』の空気感だとしても
そういう絵を遺した佐伯に敬服する。
作品の空気にちょっと肌寒さを感じながら
かなりイケメンである佐伯の写真の前で
「寒いの感じないほど、没頭するってすごいよ、あんた。」
「あんた って失礼じゃないか、君。」
というような会話を妄想の中で交わしちゃったりなんかして
あれから、“絵から聞こえてくる音”に
耳を研ぎ澄ませていたのかもしれない。
そして出会ってしまった。
広重の雨の音。
サァァァー という雨の音。
梅雨時期に飾ったら
家の外も雨、家に入っても雨が降っちゃうんだなぁ。と
いつ・どこに・どうやって家の中で広重の雨を降らせるか
それが今一番の悩みの種だ。
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2008/05/06 14:40
数千の、あるいは数万の陶器に埋もれていても
確固たる存在感で
小宇宙のようなオーラを纏い
見る者を惹きつけてしまう陶器。
畳の部屋で寝そべって
障子ごしに入る、時間の経過とともに変化する日の光に照らされる姿を
朝から晩まで眺めていられる陶器。
人間国宝とされる人は、そういう作品を造る人、ということなんだろうか。
茨城県陶芸美術館で荒川豊蔵の展覧会を観た直後から
ここ数日、そんなことをぼんやり考えている。
美術館をはしごしてしていたので、さらっと流すつもりが
イヤイヤなんだい、勘弁してくれよ。というぐらい見入ってしまった。
最後にはげんなりするぐらい疲れてしまっていた。
そして、人間国宝の作品というのは・・・という
空しくなるような自問自答のドツボにはまった。
益子も笠間も陶器市のさなかであることが
さらに拍車をかけていたのかもしれない。
自問自答の最中にはっきりと思ったことは
大枚をはたいて入るような和食のお店などで
玄関に飾ってあるツボが貧相だと、即刻帰りたくなるし
つまらない器で料理を出されたりすると
テーブルをひっくり返してやりたくもなるし
然るべきところに然るべき器を使って欲しいし、見てみたい。
‘和’を売るトコロでは
それ相当の文化の継承をして欲しい。
じゃないと、お財布の福沢諭吉さんと上手にさよならできないのよ。
と、いうこと。
動植物を人の試行錯誤でおいしくいただくとしたら
土と火を探求した人の試行錯誤でうまれた器でいただきたい。
そうして「自然の恵み」を意識することが
人間としてとても重要なことだというようなことを、茶道を通じて教えてもらった。
普段の生活で、そう意識することは困難に等しい。
けれど、楽しみようはいくらでもある気がする。
やっぱり陶器はこの上なく楽しい。
料理の腕前をさらりとカバーするチカラを持ち
雑草を生け花に変えるチカラもあり
なんだか潤ってる我が家。という錯覚まで引きおこす。
陶器市などで、ちょこまかちょこまか買い集めた器たちは
“気に入ってる度”が高ければ高いほど
なぜか割れてしまうという不運なジンクスを抱えているけれど
“見た目でカバー”の我が家の食卓で
それぞれの作家さんの手仕事は
安く売買されながらも、ちゃんとぬくもりを食卓に伝えてくれている。
そして、我が家を訪れる人に
玄関では、GOJA WORKSさんの陶板が「いらっしゃいませ」をし
しがみさこさんの陶器の人形が「汚い家ですが・・・」と言い
トイレで、吉澤奈保子さんの陶板が「どうぞごゆっくり」的雰囲気をかもし出し
居間で、岡田吉真さんやリビングストンさんや
誰だか忘れちゃった作家さんたちの作品たちが
「ホコリは見てみぬフリしてくださいね。」と語りかけているはずで
“見た目でカバー”の役割の仕事を十分にこなしてくれている。
国の重要無形文化財保持者の作品は
「これ1個でベンツが買える。」という価値が付く。
もしそういうお金が舞い降りてきたら
夫はBMWを買うだろう。
私はその抹茶碗を買うだろう。
芸能人の離婚の理由によくある「価値観の違い」
離婚に至るほどの要因になることに日々納得するけれど
まぁ、ありとあらゆるそれぞれの価値観があるのだろうけれど
根本のお金は天下をめぐりめぐって、はるか上空をかけめぐっており
こんなにだいすきな私の手元に、舞い降りてくる気配もない。
なので離婚することになっても、その理由にはきっと挙がらない。
田尾明子さんの器にのせた
義母が作ってくれたフキの煮物をつつきながら
石川若彦さんのグラスで日本酒なんかをいただいて
ありがとう、春。と程よい日常だ。
伝承しなければならない日本文化に
たまにはどドップリ浸かってみることも
程よい日常には必要なことなんだろうなぁ。とぼんやり思い
荒川豊蔵の造りだした緋色の自然の結晶に
いやいや、とんでもなくイイモノ見せていただきました。と思いを寄せ
人間国宝の作品というのは・・・
という自問自答がまた繰り返される。
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2008/02/28 19:50
花粉症に苦戦しながら、クルマで1時間半
水戸芸術館へ行った。
5/11まで宮島達男さんの『Art in You』展をやっている。
宮島さんの作品には、現代アートをなぞる美術館であれば
必ずといっていいほど出会えるけれど
新作を含めた今回の展覧会は
私の、あふれ出そうだった期待を裏切らなかった。
初めて宮島さんの作品に出会ったときも
数々の作品と出会ってきた今でも
まず最初の、“ぶっ飛ぶ”感が変わらない。
そしてしばらくたつと
作品に対して、自分が‘馴染む’感覚になる。
なんと言い表せばよいのか
まるでプールで潜水をしたときのような
鑑賞後は、嵐の後の静けさのような雰囲気に包まれて
死を想うし、人生を想うし、こどもを想ったり、地球を想う。
宮島作品には、なんとも言いがたい魅力がある。とやっぱり思う。
『Death Clock』という
Macの画面に、知らない人がモノクロ写真で映し出されていて
画面の中央で、刻々とデジタル数字のカウンターが
その人が死ぬまでの残り時間として
カウントダウンされていく作品があった。
そこで声をかけられた。
「あなたはまだまだでしょうね。」と。
入館する際に、前を歩いていたおじいさんだった。
「わたしはもうすぐです。」とほほえんで
「あなたのおじいさんはいくつですか?」と聞かれた。
両方亡くなりましたと伝えると、今度は親の年齢を聞かれた。
見た目ハイクラスであるおじいさんは
90歳を過ぎていたようだ。
思いもよらず、ありえない場所で声をかけられ
どっぷり作品に浸かっていた私は
その時少しパニック状態になっていたと思う。
会話のほとんど覚えておらず
帰りのクルマの中で(今現在も)後悔した。
「あのおじいさんと、お茶でもすればよかった。」
現代アートというよりは
狩野探幽とか、横山大観的雰囲気のおじいさんは
宮島作品に何を想って、どんな景色を回顧したのだろう。
おじいさんのインスピレーションは、どんな形をしていたのだろう。
「『Art in You』
アート(美)はあなたの中にある
そう、アートは特別な人のものではなく、
特別な人のみが理解できるものでもない。
アートはすべての人が創り得ることができ
すべての人が理解できるものなのだ。
アートは人間によって、開かれていく。」 宮島達男
人生の先輩の『Art in You』を聞けるチャンスを逃してしまった。
もし、この文章を読んでくださっている方が
『Art in You』展を鑑賞したら、きっと
私がおじいさんをナンパしたかった気持ちがわかってもらえる。
と信じている。
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2008/01/23 18:20
“気が狂いそうだ”
数年前、初めてみた時にそう思った。
そしてその出会いは、強烈に印象付けられたものだった。
それ以来
「好きな画家は?」と聞かれると
「鴨居玲」と答えるようになった。
好きな画家は、数え切れないほどいる。
けれど、それを問われたら、そう答えるしかないと云うほど
鴨居がキャンバスに描いた世界が、人物が
たまに夢に出てきてしまうことがある。
今日、笠間日動美術館に、鴨居の個展を観に行った。
“気が狂いそうだ”と思うのは、“ガラスが邪魔だ”ということで
「叩き割りたい。」という衝動にかられてしまうからだった。
監視の目がなければ、そっと作品を壁からはずし
額からキャンバスを抜いて
ぺたりと床に座って、キャンバスを両手にとって眺めたい。
別の美術館の、信頼している学芸員に聞くと
鴨居の作品は、個人蔵が多く
「大邸宅の地下室なんかで、ひとり楽しむにはもってこいの画家」
だという。
今回の展覧会も、作品の1/4は、個人の所有だった。
そして、以前衝撃を受けた、夢にでてくるほど
“もう一度みてみたい”と強く願っていた作品は
今回は観ることができなかったが
図録をあたったら、個人所有の作品だとわかった。
美術館の売店で、仁王立ち。
“気が狂いそうだ”と、再度そこでも思ってしまった。
世界には
‘どこに行っちゃったかわからない’たくさんの名画があって
それらは、大金持ちで資産家で
ペルシャネコの毛より長いんじゃないか
ぐらいの絨毯がひかれた応接間がある家の
美術コレクターなんかが
それはそれはうす暗い、作品の保存に適した湿度を保った地下室で
バカラのグラスなんかに
カミュウやらレミーマルタンやらの最高級品をなめながら
毎晩ほくそ笑んで、眺めているのだ。
と、想像する反面
ものすごーく、見た目がこきたないおじいさんなんかが
これまた、ものすごーくきったない8畳一間ぐらいの狭い部屋で
夜な夜な、かったいパンをかじりながら
ひとり眺めているのかも。
と、想像する。
美術品に対して感じる
“気が狂いそうだ”という衝動から抜け出すには
こんなくだらない想像をすること以外、なす術がない。
美術品の楽しみ方は、いろいろとあるものだ。
鴨居の作品が、きっとまた夢にでてくるだろう。
それも楽しみ方の一つなのかもしれない。
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2007/08/07 19:44
年に3日間、ここ数年は夏に
私の実家と画廊が協賛して、美術品の展示即売会を開く。
地元の商工会議所の会議室を貸りて
絵画や版画や陶芸作品など、総額で5千万円近い美術品が陳列され
19リットルの生ビールが設置される。
父の、あるいは母の‘実益が伴わない趣味’ようなもので
初日の夜は招待客のみの大宴会となる。
接客しなければならない立場である父も、母も、私も
生ビール片手に、ああでもないこうでもないと言うだけで
したがって、招待される側も
「酔わないうちに観なければ」と生ビール片手に会場を歩く。
必死なのは、画廊の社長だけだ。
招待客は、単なる父のお友達が多く
一番の高値がついた作品の前で
「なんだこりゃ、オレにも描ける」と豪語する人も少なくない。
そういう人は、決まって‘自慢できる酒’や
‘おかあちゃんが漬けたナスの漬物’を差し入れしてくれるので
これは毎年招待状を送るべき立場にある。
13回目となった今年も、それなりの一流品が揃い
そして決まって父が言う。
「なんとも気分がいい」
たとえこの3日間が赤字になったとしても、続ける理由はそこにある。
やめられないのだ。
相当の名だたる美術品に囲まれて
生ビールを飲み、日本酒に飲まれ、美術品に酔う。
その贅沢が。
そしてまた一方で
かつての名誉を得た、評価額が下がる一方の作家は
酔ったイキオイでとことん非難の嵐にあう。
たとえば今回
俗にいう“最近いい仕事をしていない”ある作家の「ぐい呑」が出品された。
けれど、その作品は
「ぐい呑」としては大きすぎ、「湯呑」としては小さすぎで
(「ぐい呑」は「湯呑」より4・5万円評価額が上がる)
それなりに酔ったみなさんの注目の的になってしまった。
そうなると、画廊の社長がかわいそうなぐらいになる。
「持ってこなきゃよかった・・・」と、ため息まじりで言った背中が忘れられない。
そして、搬入・搬出は家族総出がしきたりとなっているため
美術には全く興味がない、実家を継いだ兄も
これまた全く美術に興味がない私の夫も、手伝いに借り出される。
そして2人並んで東田茂正のぐい呑(お高い)の前で
「これで呑めば、葬式のお返しの酒でも高級酒の味になります。
とかだったら、買っちゃうねぇ」
「間違いなく、買っちゃうねぇ」
「うっひゃっひゃー」
これもまた、画廊の社長がかわいそうである。
そんなこんなで13年続いている。
また来年も、再来年もきっと続く。
我が家の恒例行事として。
私たち兄妹は「父と母の道楽の3日間」として
これからも、よろこんでお手伝いするだろう。
(いつか、協賛者の画廊の社長が音を上げるまで。)
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2007/05/29 19:48
笠間日動美術館に行った。
ボブ・グルーエンの写真展、テーマは“ジョン・レノンIN NEW YORK CITY”
ジョンとヨーコのニューヨーク生活の断片を
ボブ・グルーエンがありのままに切り取った。
そんな写真展だった。
気になったのは、ヨーコの視線。
そもそも、オノ・ヨーコさんの存在は私の中で大きく深い傷となっている。
これは、オノ・ヨーコさんの作品から受けた率直な感想で
彼女の個展は、心臓をえぐりだされそうになるぐらい
一瞬足りともスキがなく、作品全てが緊迫したアートだった。
個展を観て以来、テレビや写真で彼女を見るとついつい身構えてしまうし
「グレープフルーツジュース」は私のバイブルになった。
ボブが撮ったヨーコは、
紛れも無く芸術家としての視線をもった、ジョンを愛しているヨーコだった。
カメラ目線でこちらに視線を送るヨーコと
ジョンをしっかり目線の先にとらえているヨーコ。
同じ人間が、こうも変わるのかと思うぐらい
そのまなざしは違って見えた。
それはジョンも同じで
ジョンになって、ヨーコになって、
それぞれに見つめられたら、クラクラしてしまいそうなぐらいに
やさしかった。
やさしさが、ぽろぽろはみだしていた。
展示室を出て、ふと思った。
ジョンがもし今も生きていて、歌っていて
ヨーコがジョンの隣で作品を作り続けていて、訴えていて
2人の「愛と平和」が脈々と広がり続けていたら
湾岸戦争は、イラク戦争は、
回避できなくとも、一瞬でも早く終結しているのかもしれない。
けれど、ジョンはいない。
ヨーコの訴えは、“無気力”におしつぶされそうだ。
私自信も、その波に完全にのまれているのかもしれない。
テレビで「戦争」を見かけるたび
“イマジン”を口ずさむ癖がある。
テレビで「戦争」を報道するなら、BGMを“イマジン”にして欲しい。
と、いつも思う。
去年オノ・ヨーコさんが、インタビューか何かで言っていた。
「若いころはなんでもやりましたよ」
「私は世界中からイジメられていましたから。」
ヨーコは常にそのたくましさで、その作品で
ジョンは永遠に残る存在で、その音楽で
「愛と平和」を「世界遺産」に。
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2007/03/27 19:43
久々に宇都宮美術館に行った。
開館10周年記念の『シャガール、その愛のかけら』展。
さすがシャガール。されどシャガール。
平日にもかかわらず、たくさんの人がいて
‘人気のありそうな展覧会の土日の混み様’だった。
あんなに混んでいる宇都宮美術館は初めてだったので
さすがシャガール。されどシャガール。と実感した。
シャガールは遺した作品が多いので
案外、観たいと思えばあっちこっちの美術館で所蔵していたりする。
けれど、今回に限っては『全部シャガール』だ。
色彩の魔術師シャガールに囲まれちゃうわ、埋もれちゃうわで
美術館を出て、駐車場に向かう途中
贅沢気分でおなかいっぱい。という幸福感が
じわじわとつま先から全身を満たしていくのを感じた。
展示室の途中で
よっ
と声をかけられた。
北海道立近代美に常設されていた“大きなシャガール”がいた。
札幌に住んでいた頃、大変お世話になった1枚だ。
シャガールを眺めていると、なんだかどうでもよくなってしまう。
と、あの頃の私は思っていたために
よく“大きなシャガール”の前で、ぼぉーゥけぇーッとしていた。
遠い道のりが大変だったのか
運送の為の梱包が丁寧すぎて疲れていたのか
あの頃眺めていた色とは、少し違って見えた。
(照明の角度が違っていたのが大きな要因だと思うけれど)
けれど、相変わらずお綺麗で
サラリとした安心感を与えてくれる絵だと、ぽけっとしてしまった。
展示室を出る前に、“大きなシャガール”に戻り
まーたねぇー
と別れを告げてきた。
無事に北の大地にお帰りよ
今はそんな気分だ。
あっちこっちからやってきたシャガールは
個人蔵や海外から来た作品も多く
二度と会うことが無いだろう作品がほとんどだった。
けれど、しばらくの間はあの色彩を思い浮かべることができる。
頭に、心に、作品はきちんと焼き付けることができた。
『シャガール漬け』の状態は心地よく穏やか。
・・・晩御飯の用意なんて忘れてしまうぐらいに。
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2007/03/24 19:50
画廊でアルバイトをしていた時
入札オークションのお手伝いにまわされたことがあった。
久々の慣れないスーツとヒールで
価格を想像すらできない美術品に囲まれ
タバコすいてぇ・ビール飲みたいと延々思いを巡らせていた時
不思議とピタッと目線の先にその絵はあった。
縦横10センチに満たない小さな銅版で
どう見ても、誰も見向きもしないだろうオーラを放ち
なんだこれ。というのが最初の感想だった。
けれどもなんとなく、ただなんとなく頭から離れず
遠くで接客しながらも、なんだあれ。と思っていた。
最後のお客様が永遠と価格を迷われていた間
なんだあれ。の真相を探るべく、その絵をよぉく観察した。
それは不思議な絵で
シルクハットをかぶり燕尾服を着た、かなり目つきの悪い二羽のオウムが
チェス盤のようなフロアで、向かい立ち合って何かを議論している。
これぞ遠近法という感じのフロアの上には
2つの細長い雲が横たわっている。
『つきぬ話し合い』というタイトルで、ナンバーもサインもきちんとあった。
たまたま通りかかったオーナーに、その絵をいくらで落とせるかを聞いて
言われたとおりの価格で入札した。
後日、オーナーに「見事落札されました」とその絵を手渡され
生まれて初めて絵を買ったと、ちょっと体が震えた。
落札価格は3000円。
私の入札・落札を無表情無関心で対応したオーナーも
それを、何とはなしに手に入れた私も
ただ、純粋に美術が好きという他に共通点がない。
「それを誰がどういう評価をしようとも、美術品を手に入れる時は
ただ、“出会い”でしかない」というのがオーナーの口癖だ。
「そして、そのチャンスを逃してはいけない」と
その部分を強調して、オーナーは商売をしていた。
今思えば、私は少なからずともオーナーの理想に沿った客だった。
結婚で引越しするとき、まず最初に箱詰めしたのがその絵だ。
私の嫁入り道具の“一番”だった。
先日、母が家に来た時その絵を見て
「やっぱりいい絵ねぇ」と感心していた。
「でしょぉー」と私は誇らしげに答えた。
今も2階の廊下で、2羽の正装したオウムが
『つきぬ話し合い』を続けている。
そして、その絵を目にするたび、よくあきないねぇ。と思いつつ
やっぱりへんな絵。と思う。
今日は「サッポロビールとキリンビールどちらがうまいか」
というようなことを議論している。(ように見える)
美術を楽しむ、ということをその絵に教えてもらった気がする。
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