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HAPPY HUNTING GROUND
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魔法の緋色

2008/05/06 14:40
数千の、あるいは数万の陶器に埋もれていても
確固たる存在感で
小宇宙のようなオーラを纏い
見る者を惹きつけてしまう陶器。

畳の部屋で寝そべって
障子ごしに入る、時間の経過とともに変化する日の光に照らされる姿を
朝から晩まで眺めていられる陶器。

人間国宝とされる人は、そういう作品を造る人、ということなんだろうか。
茨城県陶芸美術館で荒川豊蔵の展覧会を観た直後から
ここ数日、そんなことをぼんやり考えている。

美術館をはしごしてしていたので、さらっと流すつもりが
イヤイヤなんだい、勘弁してくれよ。というぐらい見入ってしまった。
最後にはげんなりするぐらい疲れてしまっていた。
そして、人間国宝の作品というのは・・・という
空しくなるような自問自答のドツボにはまった。
益子も笠間も陶器市のさなかであることが
さらに拍車をかけていたのかもしれない。

自問自答の最中にはっきりと思ったことは
大枚をはたいて入るような和食のお店などで
玄関に飾ってあるツボが貧相だと、即刻帰りたくなるし
つまらない器で料理を出されたりすると
テーブルをひっくり返してやりたくもなるし
然るべきところに然るべき器を使って欲しいし、見てみたい。
‘和’を売るトコロでは
それ相当の文化の継承をして欲しい。
じゃないと、お財布の福沢諭吉さんと上手にさよならできないのよ。
と、いうこと。

動植物を人の試行錯誤でおいしくいただくとしたら
土と火を探求した人の試行錯誤でうまれた器でいただきたい。
そうして「自然の恵み」を意識することが
人間としてとても重要なことだというようなことを、茶道を通じて教えてもらった。

普段の生活で、そう意識することは困難に等しい。
けれど、楽しみようはいくらでもある気がする。


やっぱり陶器はこの上なく楽しい。
料理の腕前をさらりとカバーするチカラを持ち
雑草を生け花に変えるチカラもあり
なんだか潤ってる我が家。という錯覚まで引きおこす。

陶器市などで、ちょこまかちょこまか買い集めた器たちは
“気に入ってる度”が高ければ高いほど
なぜか割れてしまうという不運なジンクスを抱えているけれど
“見た目でカバー”の我が家の食卓で
それぞれの作家さんの手仕事は
安く売買されながらも、ちゃんとぬくもりを食卓に伝えてくれている。

そして、我が家を訪れる人に
玄関では、GOJA WORKSさんの陶板が「いらっしゃいませ」をし
しがみさこさんの陶器の人形が「汚い家ですが・・・」と言い
トイレで、吉澤奈保子さんの陶板が「どうぞごゆっくり」的雰囲気をかもし出し
居間で、岡田吉真さんやリビングストンさんや
誰だか忘れちゃった作家さんたちの作品たちが
「ホコリは見てみぬフリしてくださいね。」と語りかけているはずで
“見た目でカバー”の役割の仕事を十分にこなしてくれている。


国の重要無形文化財保持者の作品は
「これ1個でベンツが買える。」という価値が付く。
もしそういうお金が舞い降りてきたら
夫はBMWを買うだろう。
私はその抹茶碗を買うだろう。

芸能人の離婚の理由によくある「価値観の違い」
離婚に至るほどの要因になることに日々納得するけれど
まぁ、ありとあらゆるそれぞれの価値観があるのだろうけれど
根本のお金は天下をめぐりめぐって、はるか上空をかけめぐっており
こんなにだいすきな私の手元に、舞い降りてくる気配もない。
なので離婚することになっても、その理由にはきっと挙がらない。

田尾明子さんの器にのせた
義母が作ってくれたフキの煮物をつつきながら
石川若彦さんのグラスで日本酒なんかをいただいて
ありがとう、春。と程よい日常だ。

伝承しなければならない日本文化に
たまにはどドップリ浸かってみることも
程よい日常には必要なことなんだろうなぁ。とぼんやり思い
荒川豊蔵の造りだした緋色の自然の結晶に
いやいや、とんでもなくイイモノ見せていただきました。と思いを寄せ
人間国宝の作品というのは・・・
という自問自答がまた繰り返される。




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波打つ音楽

2008/04/28 18:11
メジャーデビューしたすぐのころから
なんだか気になるユニットで
「ライブがすごいらしい。」という風の噂を聞いてはいたけれど
いつのまにか、あれよあれよと言う間に
ケツメイシは、爆発的ヒットをとばすようになり
ライブのチケットは“プレミアチケット”になっていた。

「やっぱり一度は観て踊ってみなければ」
という強烈な衝動にかられて優先予約に応募
2度目のチャレンジで、チケットが何とか取れて
初参戦に動揺しながらも
この2ヶ月は、ケツメイシ以外の音楽を全く聞いていなかったし
ライブDVDで予習を繰り返して、CDを全て聴きこんで
気づくとすっかり“ケツメバカ”になっており
いざ会場に入ってみると、想像をはるかに超えたステージに近い席で
感激と動揺の涙が、ポロポロこぼれるぐらいに近くて
ライブはもちろん
客席で1万人がタオルや手を振り回すのも圧巻で
意気込んでスポーツブラで参戦してビンゴっ
年齢を忘れ、運動不足をもろともせず
終了後、生ビール2リットル強が
一滴残らず身体にしみこんでしまった。


どこがどういい、というライブではなくて
なんだかもう何がどうなってもいい。と思うライブだった。

そして今
なんだかもう何がどうなっちゃたのか・・・という筋肉痛が残っていて
宝くじ当たるかも。という運も
あの興奮と引き換えに使い果たしたかもねぇ。と思う。

興奮しまくりのジャンプをしながらも
タオルをブンブン振り回しながらも
曲間ですぅっと感じたのが
「うまい。」ということ。

よく、‘ライブになるとなぜか音痴になるミュージシャン’がいるけれど
専門家ではないので、うまく表現できないけれど
音がブレない。CDとおんなじ。という気がした。
‘かーっこいいっ’じゃなく、‘かっくけぇーっ’という感じ。


オペラに身を凍らせ
ジャズに身体を震わせ
ロックが脳天に突き刺ささり
レゲエに身をまかせ
シャンソンに心が踊る
こんなことはミーハーだからなせる業だと、自分に了承を得て
この音楽の許容範囲を全開にして
取りこぼしがないように、音楽と触れていきたい。

あと
ケツメイシのライブにまた行きたい。
あの波打つ興奮の渦に、自分を連れて行ってあげたい。


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げろことげろお

2008/04/08 11:28
今日は大雨で、仕事がお休みになった。
事務職が雨で休みってスバラシイ。

梅が散り、桜が咲き、どこをどうみても春で
雨が降っている。

こういう春の日には
どうしても実家の庭に、あの姿を探しに行きたくなる。
ヒキガエルだかガマガエルだかウシガエルだか
とにかく大きいカエルの‘げろこ’と‘げろお’だ。

随分前に、父がいつからかどこからか持ってきて
決して広いとは言えない庭に放置されていた。

初めて「ウチに何かいる」と思ったのは
夕食後の団欒中突然、背筋も凍るような不気味な何かの鳴き声が聞こえ
暗い庭に目を凝らすと、池の淵にネコのように光る小さな目が数個あり
父以外の家族誰もが「また(父が)なんか連れてきた」と思った。

懐中電灯で照らすと、そこにはドデカイかえるが座っていて
母は悲鳴をあげ
父は「かわいいだろー。虫食べてくれるぞぉ。」とえらく自慢げで
その初対面以来、彼らは一応我が家の「ペット」になった。
ペットといっても、えさは自給自足で、排泄している姿を見たことも無く
名前をよんでもウンともスンとも言わず、姿さえださない。

「げろことげろお」というネーミングも、私が付けたものではあるものの
「この子はげろこちゃん。こっちがげろおちゃん。」と付けた訳ではなく
ただ、“うちの庭にドデカイかえるが2匹ぐらいいる。”
というだけのネーミングで、それぐらいめったに会えない。

同時期にいたペットの犬が、げろことげろおの検出器で
庭で意味も無く、犬が楽しそうに吠えているときは
“あぁ、げろこ。”とか、“げろおが見つかちゃった。”と思った。
春の雨上がりの日などに、たまに散歩している姿を見かけ
かるく挨拶をし(一応ペットなので)
夏の夜には、あの恐怖の声が庭に響いた。

実家の改築で完全に取り壊され、庭も土砂に埋もれ
改築後の庭には新たに倉庫が立ち、そこへと続くコンクリートの道ができた。
完成して数年たっても、現れてもいい季節になかなか姿を現さず
家族の誰もが、きっと土と一緒にもってかれちゃった。と思っていた。

げろことげろおが消息不明になって数年後の春の日に
庭のコンクリの道のど真ん中に、げろこだかげろおだか(区別がつかない)が
「ちょっとぉ、ねぇ、歩きにくいだけど。」とでも言いたげに座っていた。
家族全員召集し、それがげろこであるかげろおであるかの議論をし
まぁ、よく出てきてくれました。と散々褒め称え
そのまま、あとは父と犬に任せて解散した。

生きてるものはなんでもかわいくて
ゲンゴロウは古くからの友人だそうで
ゴキブリを殺虫剤で殺そうとすると
「生物の大先輩になんて失礼なことをするんだ」と本気で怒る父は
もううれしくて仕方がないご様子で、げろこだかげろおだかを抱き上げ
しきりに体と目と目の間をなで、私を呼んで「なでてみろ」と言った。
「ぷにょぷにょしてて、‘いいこいいこ’をするとウインクする」と。
その脚線美があらわになると、「カエルって、足、ながーい」と感心したけれど
あの見た目だ。
木の棒でつっつこうとしたら、「素手っ」とカミナリが落ちた。
「目がつぶらでかわいいだろう。噛み付くわけでも何でもないんだ。」と言われ
“ヤギの目よりかわいい目だ”それだけの勇気で
仕方なしに指先で‘いいこいいこ’をすると、ウインクしながらも
「オマエになでられるほど、オレは落ちぶれちゃいねぇ。」
みたいな顔をした(気がした)。

げろこだかげろおだかに触れたのは
あれが最初で最後(今のところ)だった。


ここのところ、またまた彼らが消息不明である。
カエルの寿命がどのぐらいなのか知らないけれど
ただ、ずぅぅぅっと疑問に思っていることがある。

年に数回見かけるときもあり、数年見かけないこともある。
けれど、見かける度とまではいかないけれど、気をつけて彼らの姿を眺めると
あれ?色変わったか?という時もあり
前に見かけたカエルと種類が違うんじゃないか?と感じることもあり
それが、決して2匹で交差する違和感ではなかった。

父に問いただすと「さぁ」「そうかぁ」と的を得ず
母に聞いて納得した。
「あれ、きっと、お父さん、足してる。」
「うじゃうじゃするほどいないけど、足してる。」

じゃぁ、げろことげろおは何匹いる?
これは父が黙秘する以上、永遠にナゾだ。
見かけたら、ケータイに写真を残すことを思いついたものの
一度だけ撮った画像が、あまりにも、こう、なんというか
ペットと言い切る立場上、誠に申し訳ないけれど
‘美しくなく’て、思わず削除してしまった。

けれど何故か、やっぱり、どうしても、会いたい。
実家を出た身ではあるけれど
名づけ親としての、米粒ほどの意地がある。


今年のげろことげろおは、どんな姿形なのだろう。
今頃庭でスキップでもしているのだろうか。。。

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化学反応

2008/04/07 19:44
たとえば・・・

たとえば、地球を平面にして、それをひっくりかえして
全人類のうちの男性♂を振り落とし
ひとりひとりの外見を眺めてみても
稲葉さんに勝るオトコはいないだろう。
と、思っている。

稲葉さんは、もちろんのB’z稲葉さんで
私に中の『この世で一番イイオトコNO.1』の座を
かれこれ20年以上、誰にも譲らない。

けれど、B’zの松本さんが稲葉さんの隣にいないと
なんだか落ち着かないし、しっくりこない。
結局のところはなんだかんだ言ってB’zファンなのだ。

顔がよく、スタイルがよく、頭がよく、清潔感が漂い、お金持ち。

‘お金持ち’の部分が‘極貧’になったとしても
それはそれで「私が稼ぐからっ」ぐらいに思わせるのは
稲葉さん以外にはいない。

収入は重要だ。
それは、お見合いを繰り返した時期に
完全に頭にすり込まれた項目で
その背景には、ありとあらゆる経験と体験と想像がある。

その辺りはあっちら辺に放っておいて
ついでに私の容姿・性格・収入などは雲の上だとして
稲葉さんでありB’zである。

友人と二人「私たちB’zをこよなく愛してる」というのが信条になっている。
それは、追っかけでもなく、マニアでもなく
ただ、純粋に‘反応する’ということで
その習慣で一番被害を被るのは夫だ。

たとえばこの前、こたつで気持ちよくうたた寝をしていたら
B’zの音がちゃっちく聞こえた。
安っぽいカラオケで、腹が立って目が見開いてしまった。

夫が開いた漁船会社のホームページのBGMになってたようで
夫としては、ウキウキで釣りの計画を練っていたであろう瞬間に
すぐ脇で、妻がものすごい形相で仁王立ちするのだ。
「音けしてっ」

BGMにB’zの曲が流れる化粧品のTVCMや
もちろんB’zのCMが流れているときに
チャンネルを変えようものなら、瞬時に鬼の形相に変わる妻である。

けれど、これは本人の意図するところではなく
一種の化学反応みたいなものなので
夫には了承してもらう以外に打つ手はない。

テレビで唄う稲葉さんを眺めたところで
隣に座っているのは、ネプチューンの名倉さん似の夫である。
「オレは満里奈ちゃんと結婚できるはずの顔だ」
というのが夫の言い分で
心の広い夫には、感謝の気持ちがあふれ出てもいいぐらいだ。

けれどこの化学反応は
松本さんがギターを弾き、稲葉さんが唄い続ける限り
止むことはないのだと思う。
年齢を重ねるほどに、さらにココロ広くなって欲しい夫に期待している。


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アトムの完成心待ち。

2008/04/04 18:48
昨日、NHKの番組で
最近の入社試験の話題が取り上げられていた。

マイクロソフトの入社試験に
「富士山を動かすにはどうしたらよいか」
というような設問があったそうで
ある人は、富士山の半径を概算して
そこから、体積をわりだし云々で
結果、トラックで300億回往復して土砂を運べば富士山を動かせる
という、スバラシイ回答をだしたのだそうだ。

算数に対して、完全に白旗をバンバン振っている私の人生では
そんな結果は
まっっっっっっっっっっっっっっったく思いつくはずもなく
回答を見ていても、「えっ?ナニ??」という感じがした。

ぽかーんとしていると、夫がイヤラしーく口にした。
「富士山を動かすにはどうしたらよいでしょうか?」

ちょっと考えてみた。
そして、私なりのスバラシイ回答を導きだした。

「おいしい日本酒をたぁくさん飲んで、デザートにブランデーなんかを嗜んで
ものすごぉぉぉくいい気分で、ペロンっペロンっになって富士山をみれば
富士山は動いてる。しかもゆらゆら動いちゃう。」

「採用」(笑)

夫には手放しで一発採用されたが
マイクロソフトに採用されるかどうかは、大いに疑問。


日本人の宇宙飛行士活躍を見てから
ずっと思っていることがある。

ものすごーく・すばらしーく頭がいい人たちと
はてしなーく・かぎりなーく想像力が豊かな人たちの協力で
宇宙旅行も夢ではなくなった時代になったんだなぁ。と。

ドラえもんやアトムを産んだ漫画家の想像力に
現代の科学や技術が追いついてきた。
そう考えれば
わたし、マイクロソフトに想像力を買われて採用されちゃうかも。

そんなつまらない想像力を、全開フル回転にして
いかに家事をサボるか。を日々考えているのだけれど
今のところ、夫からは無言の不採用通知が届いている。


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ヨコクラノカベ

2008/03/12 18:03
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先週水曜日突然思い立って
その週末に1泊2日蔵王温泉へ。

スキーをかじる者にとって
“蔵王”といえば“横倉のカベ”、“横倉のカベ”といえば“蔵王”。
最大斜度38度。250m。上から覗くと垂直に近く
全面に、ひざの高さもあろうかコブがならばさっちゃって、どうしよう?
というカベだ。
テクニックよりもまず度胸が必要。と
ほとんどのコースガイドに書いてある。

コース下から横倉のカベを見ると
首の角度は、まさしく‘見上げる’角度になる。
そして、「(上村)愛子ちゃんはすごいなぁ。」と心から思う。

2日目に、横倉のカベの入り口に立ってみた。
数年前の私だったら、もちろんブザマながらに降りていただろう。
と、思った。
さすがに30歳をすぎると、後先を考えてしまうものだ。

滑るより転んでいる方が距離が長くなることだろうし
これから3時間半、クルマで帰らなくてはいけないし
昨日転んでぶつけたらしい体のあちこちが痛い気がするし
ブーツのバックル辺りの筋肉がしびれてるし
ケガをして帰ったら、両親に笑われるだろうし

そんなことが、垂直に落ちていくコースの入り口で
一瞬に駆け巡ってしまった。
そして迂回コースを選んだ。

スキーをこよなく愛している両親は
蔵王から帰った私への第一声が
「横倉のカベやった?」だった。
やってない。と言うと
「大人になったのねぇ。」とニヤニヤしながら言った。

ニヤニヤしている両親を前に心に決めた。
来シーズンも、蔵王に行ってやる。
(十分なストレッチの後)最初の滑走であのカベを滑る(落ちる)。
多少の痛みが残るような転び方をしても
‘転び方は、大人らしくうまくなっている。’ということが今回の学習成果だ。

さらさらとカベを滑る、周りのスキーヤーには申し訳ないけれど
やっぱり経験しておかなくては。と思う。

そして、何といっても蔵王温泉のお湯は
多少のケガも治っちゃうんじゃないか?と思えるほど
いいお湯だということも、今回学習済みなのだ。


けれど昨日夢にみた。
ヨコクラノカベを滑る、という前に250m一気に転び落ちた夢だった。
コース下まで転び落ちて、カベ見上げた私が
どこかに飛んでいった、板とストックを探している。
そんな夢だった。
今朝、何だか体のあちこちにダルさがあった。
・・・・・・。
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三回忌

2008/03/04 19:10
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ここのところ、本当によく柴の曲をくちづさんでいる。
この虹を見たときも、ぼんやりとくちづさんでいたことに後になって気づいた。
去年の今頃も柴のことをブログに書いた。
春が大嫌いだけれど、春を感じると途端に柴が恋しくなる。

今もたくさんの方が「柴理恵」をキーワードに
このブログに入ってきてくれている。
人気歌手だねぇ。と思ったりする。
亡くなってからもうすぐ3年になる。
柴の歌声は、たくさんの人の心に染み付いているのだ。と
そして、このブログには
やっぱり柴理恵を欠かすことができないのだ。と
そう思っていたりする。

誰かを失うということは
その誰かを執拗に追い求めることなのかもしれない。

柴の死に顔が「とても安らかだった。」という友達もいたし
「なんだかものすごく苦しそうだった。」という友達もいた。
どちらにしても、柴の新譜は二度とこの世には出ないし
誰にでも、柴のやさしい穏やかな思い出がある。
ま、それだけで十分なんだよね。と遠くなる死を思ってみたりする。
 「かなしみをすべて放り投げて、このままずっと眠るのでしょう」
と、柴自身がうたっているから。

遺された声を
何度も何度も何度も何度も繰り返し聞いて
身体がだるくなるほど、虚しくなったり
身体が軽く感じるほど、透き通ってみたり
次回柴に会えるまでは、こんなことを繰り返していくのだろう。


大切な人に、柴の歌声を贈り物にしている。
CDにきちんと遺された声が
一人でも多くの人のココロに届くことを祈りつつ。

そうやって、柴の死をこれからもずっと悔やんでいく。
けれどそれを癒すのも、柴の歌声以外にはないことも
ちゃんとわかっているつもりだ。


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